観測されない世界は存在しない

彼は子供の頃から仏間が苦手だった。その仏間ではよく親族が集まり宴会が開かれていた。大好きな母は構ってくれない。そこに入るとタバコの煙が鼻と目を突き、少し遅れて酒の充満した匂いが迫ってきた。いつも優しい叔父さんは酔っ払いの有象無象の一部へと成り下がり、意味不明な言葉が流れ込んできた。唐突に肩を掴まれ、よくわからない言葉を投げかけられる。何を答えたかもわからないまま放り出され、手には少しばかりのお小遣いが残った。意味不明な空間。彼にとって仏間はお小遣いがもらえるチャンスの場というよりも、むしろ意味不明な人間たちがひしめく、恐るべき場所だった。

そんな彼も大人になった。仏間へは滅多に足を踏み入れない。「恐れているか」と聞かれればNoだが、そもそも立ち入る用事がないのだ、と彼は答えた。今日もまた彼は仏間に面した部屋でスマホに流れるツイートを読んでいた。実家に住むまま大学院まで進んだが、最初の就職先で躓いてしまった。入社したものの馴染めないまま無気力なまま過ごす日々。ある日辞表を出してしまっていた。それから彼は家に住むままバイトをしつつ過ごしていた。

彼の世界観は凝り固まりつつあった。ツイッターをはじめ、インターネットはまだ見ぬ世界の知らぬ人が送る「より良い」生活を教えてくれる。宇宙旅行、外国でのしがらみのない暮らし、北海道の雄大な自然、沖縄の海、都会のうまい店、海を望む温泉。写真、動画、文章を通して世界はその広さを教えてくれる。だが、彼は世界に広さを必要としていなかった。潜在的な希望を、よりよい生き方の可能性を認めたまま生きるには、彼にとって現実は現実過ぎたのだ。観測されない世界は俺にとって存在しない、と彼は考えていた。見えなく届きもしない世界のことを考えて何になるというのだろう?それらは世界の裏側、いや存在しないバグであり、俺が気にするべきものではない。

今年の夏は例年になく暑い。汗でスマホを持つ指が滑りそうだ。アブラセミの音が耳障りに響く。ふと顔をスマホの画面から背け、立ち上がり伸びをした。仏間の方へと足を伸ばす。

ーー観測されない世界は俺にとって存在しないーーそう考える彼も目の前の退屈には考えを改めざるを得なかった。退屈した日常には刺激が必要だ。祭り、飲み会、冠婚葬祭。そういった非日常な体験は日常に活を入れ、現実を改めて現実と認める機会を与えてくれるのだ。いつもとは違うことをする。公園の石をひっくり返すと見たこともないような有象無象が蠢く薄暗い世界が現れる。現実の不意を突いたような光景。ゲームのバグを見つけたようなものだ。ゲームの世界は人が作ったものであり、故に綻びつまりバグが存在する。想定されていない建物の裏へ潜り込めたり、崩れたグラフィックスのモンスターが存在する。現実も似たようなものかもしれない。現実世界にバグがなぜないのか?ある宗教家なら「世界の創造主は万能なので現実にはバグがない」と答えただろう。だが彼は創造主を信じてはいなかった。現実世界にも誰も観測していない裏面=バグがある…

彼は虫の鳴き声を背景にぼんやりと考えつつ、なんとなく仏間の襖を開けた。あの頃とは違い、古びた服の中のような匂いがぼんやりと鼻を突いた。ふと仏間にあるタンスの引き出しが目についた。ただ目に入ったというだけだ。彼は不意にすべてを壊し暴れまわりたい衝動に駆られた。目の前の仏壇に並ぶものを払い除け、家具という家具を壊し、畳の上でのたうちまわり世界を破壊する…しかし衝動は衝動のままだった。瞳孔は開き、肩は少し盛り上がったが、何もしなかった。彼は息を吸い、タンスを眺めた。

目の前にあるタンスの引き出しを開けたら何が起きるだろう?彼は先ほどの衝動を意識的に抑えつつ息を吐いた。先ほどの暴れまわりたい衝動とはべつの衝動がここまで唐突に現れたことに彼自身も意外だった。

そういえばこの引き出しを開けたことはなかった。中学以降、ほとんど入ったこともないような仏間だ。タンスに触ったことも恐らくないだろう。なんということはない。開かずの金庫を開ける番組でも大したものが出てこないことがセオリーだ。ましてや自分が暮らす実家で突飛なものなどあるはずもない。しかし、現実世界のバグがそこにあったとしたら?彼はまた息を吸い込んだ。背景ではセミの声が響き、手にするスマホの表面に汗が一筋伝わった。開けた先に何も存在していないとしたら?亜空間に吸い込まれ、万物が、この世界が壊れてしまうのではないか?

ーー馬鹿げているーー暑さにかまけた妄想だと彼自身が考え直す直前、その引き出しの取っ手が触りもしないのに「カタン」と動いた。音はしなかった。ほんの少しの動きだ。本当に動いたかどうかも分からない程のほんの少しの動きだ。風で動くようなものではない。見間違いのはずだ。彼は目を見開き、その取っ手を凝視した。手にするスマホの感覚はない。すべての感覚はその取っ手へと注がれていた。

毎日過ごす家のある部屋のタンスの、起きたかも怪しい微小な動き。ただの見間違いのはずだ。見逃せばそれで済む。しかし彼は気になってしまった。なんのことはない。見えない世界だが、あまりにも身近すぎる。今し方考えていた世界のバグなど無関係に決まっている。何を下らないことに気を使っているのだ。仏間を出て新しいツイートが届いてないか確認しよう…

しかし意思に反して彼は取っ手を掴んでいた。ほんの無意識の戯れだった。

空気の流れが変わった。それまで煩かったセミの声が止んだ。空気の流れが変わったのを感じた。恐ろしいほどに静寂な瞬間が訪れた。クーラー音さえもしない。もう少しで引き出しの隙間があく。手を伝う空気の流れを感じた。吸い込まれるような前兆を感じた。こうなったら開けるしかない。ゆっくり開けるか、一度に開けるか。取っ手を掴む手指の間には油汗が流れており滑りそうな予感が滲む。ここで手を離してはいけない。

ゲームの世界は人が作ったものであり綻び、つまりバグが存在する。観測されない世界は存在しない。ではこの引き出しは?これは意志の問題なのだ…

彼は息を吸って、数秒してから吐き、そして指に力を入れ取っ手を引いた。