時間を反芻して生きている

Aが暗い道を一人歩く。最寄駅からアパートまでは20分ほどだ。左右には住宅が連なっている。彼は疲れ切っていた。様々な聞こえるはずのない声や見えるはずもない幻影が想起された。風の音があるはずもない波音に聞こえ、道端のゴミ影がネズミや虫に見えた。Aにはこれらが幻影であることは勿論わかっていた。だが右後ろからブツブツと追いついてくる声。これは果たして幻聴なのだろうか?その声は聴こうとすればするほど饒舌になっていく。

「…わかっただろう?…主観的な時間は必ずしも矢のように一方方向に進むわけではないんだ。」

まだ家までは暫くある。蒸し暑い夏の夜だ。シャツが汗でぴったりと肌に貼りついている。声は無視するべきだ。だが声は蕩蕩と話し続ける。

「君がまさ今ココでする体験は過去の経験を引き摺らざるをえない。目の前にある電柱。君はこの光の集まりを処理している。生きる君は処理を止めることができないんだ…」

帰ったら家族は起きているだろうか。また暗いリビングでビールをすするのだろうかーー

「生きる君は処理を止めることができないんだ。処理を続けることが生きることだと言ってもいいかもしれない。処理とはつまり、この例で言えば光の束の解釈だ。君は光の束を柱だと考えるかもしれないし、単なる色のシミだとみなすかもしれない。だけど、その処理過程には過去の君の知覚経験が否応にも入ってしまう。考えてみたまえ。電柱が存在しない世界で育った人間が電柱をみた体験が自分のそれと同じだろうか?ある意味では私たちは過去の奴隷と言っても良いかもしれないね。」

過去の奴隷。Aが思い出すのは断片的な過去の記憶だった。子供の頃に父に連れられ訪れた太平洋。打ち寄せる波と恐ろしささえ感じるほどに積もった雲。

「必ずしも過去が今を全て決定するわけではない、あくまで傾向があるだけだ。ここで『決定』という言葉を誤解を恐れずに使ったのは、それくらいに君たちが過去に争うことが難しい、ということを伝えたいからだ。では過去が現在の君をどのように揺り動かしているか?まさかランダムな過去が君に囁いているわけではないだろう。もちろん沢山の例外はあるが、近い過去は思い出しやすい。これはひとつのルールと言えるだろう。去年よりも昨日のことのほうが思い出しやすい。」

雲は黒くなり、風が強くなる。聞こえるはずのない潮騒が伝える波はどこか自分の意思と反するように揺れていた。

「つまり君の今、まさに今、自由な君の独立した人格が知覚したと思い込んでいるのは過去の反芻なんだ。君は牛のように経験を処理しているんだ。胃にある過去の記憶が現在の口へと戻され、現在の知覚と共に咀嚼をして『今』を作っている」

だから何だというんだ?私は今、ここに生きているんだ。この蒸し暑い夜を。

「そうだな。つまり暑さに関する君の過去がーー」

道を歩くAを車がすれ違った。強いヘッドライトに眩んだ彼の眼には砂浜や海が歪んで映った。