検疫

「すみません、検疫にご協力いただきたいのですが」

そう尋ねて歩く岩崎を止めたのは空港の検疫スタッフだった。あと数歩で日本だった。

「はぁ」

岩崎は半ば戸惑いながらも、どうやってかこの場からさっさと立ち去れないかを考えた。例の感染症が猛威をふるう中、当然帰国者たちへの検疫も強化されていた。当人に感染の自覚がなくても感染を広める、いわゆる無症状感染者の存在が報道されるようになってから更にチェックは厳しくなった。感染者が多く報告されている国からの帰国者は無作為に抽出される。陰性であると確かめられるまで解放されない。

「でも私は体調に何も問題なんてありませんよ」

絞り出したのは誰もが思いつくであろう言葉だった。岩崎は自罰的にならざるを得ない。

「はい、その申し訳ないのですが、そのようにおっしゃる方にもご協力をお願いしていまして…」

いかにも申し訳なさそうにそのスタッフはマスク越しに恐縮した。岩崎はこの状況がどうしようもないもので、つまり検査に協力するしか道がないことを認めざるをえなかった。せっかく午前着の便を選んだというのに。そして明日からまた仕事が待っている。

「はい、ではこの用紙に記入をお願いします。分かる範囲で構いませんので」

検査自体は30分もあれば終わる、そうスタッフは言っていた。岩崎は少々苛立ちながら、それは表に出さずに、だが少々手荒にペンを走らせた。過去の渡航歴、感染者と疑われるような人との接触。住所。年齢。アレルギーの有無。同意のサイン。

連れられて入った検査室には大きな水槽が置いてあった。この部屋に入ったときに岩崎は「あれが…」と思わず声を漏らした。ワイドショーでやっていた通りだ。いくら未知の感染症だといっても、あまりにも馬鹿げているーーそう多くの人々が非難した。しかし専門家たちはこれが現在行える中で最も短時間で確実な検査方法であると、何度も丁寧に発信しつづけた。そのため岩崎を含めた多くの人々はこの非常識ともいえる検査方法が行われる現状を認めていた。いや、もっと馬鹿げていたとしても結果的には従っただろう。日常はゆっくりと私たちの常識を変えていく。

検査室とよばれる小部屋。窓のない、白い壁に囲まれている。水槽のせいか湿度が高い。岩崎は部屋のやや中央にあるパイプ椅子に座っている。スーツのズボンが足に張り付く。右足の土踏まずが痒い。部屋には水槽からポコポコ、という音が断続的に響いている。身につくもの全てがベタベタとしたような感覚。その中スタッフの機械的な返事がやけにハッキリと反響する。

「はい、では始めますね。心配しないでください。毒などはありませんので。アレルギーについても問題ありませんでしたよね?陽性の場合は色が変わりますので、少しの間そのままでお願いします。」

手袋のついた手を水槽に突っ込むと隅でジッとしていたそれを掴んで床に置いた。うねり、足を伸ばしている。不思議と音がしない。それだけスムーズに動いているのかもしれない。ポコポコ。水槽の音が耳障りだ。足の痒みはぼんやりとした違和感に変わっていた。一筋の汗がズボンの裏を流れた感覚。

事務作業然としたここまでの流れに、岩崎は不思議と恐怖心や、それどころか困惑めいたものさえも抱かなかった。ただ早く終わって欲しい、そのことだけを考えていた。いや勤めて考えようとしていたのかもしれない。冷えたビール、焼き鳥の串についた焦げたタレ。七味唐辛子…この検査を終えたらどの店で一杯やろうか、 SNSにこの体験を呟いたらどうなるだろうか。ただ、彼はそれがじわじわと近づき、あるいは遠ざかるように動く様を眺めていた。