静かに呟く

山崎は40数年の人生を悔いがないと表明する。大学を出たのちに運良く博物館の職を得た。大学から続けた調査が評価され、今では小さな民芸資料館を任されるに至る。もちろん、この人生に後悔はある。だが過去の経験は織り合わさっていつの間にか人生の糧となっていた。そのため失敗として取り出すにはいままでの価値観を大きく変える必要がある。しかしそれはしないほうが確実だ……。この繰り返しによって山崎が発する人物としての重みは積み重ねられ、熟成されつつあった。

この民芸資料館に起きた奇妙なつい先日の出来事も山崎の「波乱万丈」な人生のヒダへと埋もれるはずだ。彼はそう思っている。いや、そうでなければおかしい。

「この屏風の中の、この絵です。これが増えているんですよ」

最初に見つけたのは資料館に臨時で勤めている学芸員だった。江戸時代後期に描かれた屏風。民話の一場面を描いたものだ。妖怪とそれを取り巻く人々ーー驚き慄いている、あるいは気づいていないーーが描かれている。その描かれた人々の姿の見事さ、描かれた状況の歴史的価値。共にこの資料館の主力を担うものだ。学芸員が指した先の妖怪は確かに2つに増えていた。絵のバランスもおかしい。この絵は病害をもたらす妖怪との邂逅を描いたもので、妖怪が2匹では締まりがない。そもそも図録にあるようにオリジナルは1匹のはずだ。

学芸員の声はよく屋内に響いた。外を取り巻く真夏の熱気は資料館とは関係がなかった。外界とは隔絶された涼しさ。窓の奥でセミの声がくぐもって響いている。客もまばらだ。資料保存に配慮した照明とあいまってこの資料館はどこか別の世界として機能している。

「見間違いというわけでもないようだね、たしかに図録にもあるし」

山崎は自分が置かれた状況にどこか馴染めない。どうしたらよいのか、わからない。ずっと変わるはずがないものが突然、なんの前触れも無く変わるーーそういった変化に山崎は不安を感じられずにはいられなかった。不安は不快として行動に出ようとしたが、山崎はこれを抑えて普段通りにふるまった。

「確かにそのようですね…。でも、どこにどう相談したものか…」

誰にもわかるはずがなかった。しばらくの議論の後、ひとまずは警備を強化した上で数日様子をみる、という結論に至った。もちろん誰かが侵入した可能性がないわけではなかったが、痕跡らしきものさえ見つからなかっのだ。

お昼の13時。山崎は件の絵に一番近い鉄パイプ椅子に腰掛けていた。相変わらず入館者はまばらで、エアコンの音だけが室内に響いていた。館長である山崎がこうして展示室に座るのは珍しいことではない。こうして来館者の姿を見るのも、ある種の勉強ですよ、そう彼は半ば自嘲自重気味にスタッフに話していた。

件の絵の前には1人の女が佇んでいる。頭が短いが顔は山崎が座っている角度からは見えない。口元だけが見える。かぶっているパーカーのせいだ。夏場にパーカーなどおかしい。当初そう思った山崎だったが、彼は女性は日焼け防止のために夏でもパーカーを着ることがあると知っていたのだ。彼女は静かに呟く、呟く。口をパク、パク、と動かしている。読唇術の心得は山崎にはない。口をパク、パクと繰り返し動かしている。「はいはい」なのか、あるいは「まいまい」なのか。とにかくその絵とは全く関係なさそうな言葉ばかりが思い浮かぶ。

こういったときに浮かぶ一般的な印象は「変な、不気味な人だ」なのだろう。だが山崎は不思議と何も感じなかった。外で鳴くセミたちの合唱を背に呟くその姿があまりにも自然過ぎたのだ。彼はただ、見ていることに終始していた。監視員としての役割に自ら縛り付けられるように。

山崎はその日の終わりに行われるスタッフミーティングで、当然のように「何も変わったことはなかった」と報告した。複雑に絡み合った状況での決定は、確固たる決断の結果へと書き換えられていく。

だが、山崎の仕事はその日から一変するのだった。件の絵の妖怪が4匹に増えていた。彼はこのことを知ったとき、女の口の動きが「倍々、倍々」だったことに気づいていなかった。