時間旅行にはならない

ある男が太田の前に座っている。中肉中背で裸眼、髪は薄く、淡く青いポロシャツは腹の辺りで張っている。ヒゲはなく、特に不潔そうには見えない。いわゆる普通の男だ。都内の会社で働き、夜は郊外の自宅でバラエティ番組を肴にビールを飲んでいそうな普通の男。ただ、その男が持つ奇妙な力を除いては。

太田はその男と問答を30分ほど繰り返している。まあ座って話そう、といって置いたコップの水は減って居ない。太田の質問に対して男は特に苛立っているようには見えない。丁寧に答えている。しかしどこか結論を急いだような説明の仕方だ。特に急いでいるわけではないはずだ(男はまだ間はある、そう言っていた)。相手との共有理解を作ることに無頓着な言葉選び。そこに男の性格が浮き出ていた。

「それは時間旅行にはならない。あくまで過去の状態のようなものを再現するだけだ。」

煙に巻かれたような感覚が抜けないままだ。そしてその原因が自らの理解力不足にあるような気がして太田は少し焦り始めていた。彼自身は特に専門家ではない。男の話を理解できないのも当たり前なのだが、話し始めた以上はどうにかして要点だけでも絞り出したかった。ゴクリ、と水を飲み軽く一息ついてからまた男に質問をする。

「つまりどういうことなんです?過去の状態の『ようなもの』と言ったって、現にあの時は元に戻ったわけじゃないですか。」

「私は現在の状態からその状態に至るまでの過程を1つ選んで再現しているんだ。今の状態に至るまでの過程には他の道もあった。ほら、君たちが言う仮定法のようなものだよ。」

太田は学生の時に受けた英語の授業を思い出した。あの時に傘を持っていけば雨に濡れることはなかったのに。ふとその時の例文が浮かんだ。

「沢山あった過程の可能性は実際に事象が起こることで結果的に1つに絞られる。そこで情報が失われるわけだ。私は失われた情報のレプリカを頭の中で作り出し、矛盾がないように選んでいるんだ。」

「現在の状態を変えられるんですよね。過去にあったかのように。」

「結果としてはそうなるな」

「そしてその範囲に制限はない」

「その通りだ」

太田はこの問答を自分がやっていることにふとした違和感を感じた。俺はこんなことをする人間じゃない。過去に戻れたとしても俺は戻らない、居酒屋でそう強がるような人間のはずだ…。だが太田は質問を続けた。

「ならこの宇宙の全てを変えてしまえば実質的に過去に戻ることになるんじゃないですか?」

「それは出来ないんだ。私は『矛盾がないように』と言ったんだ。変える対象、つまり君が言う宇宙の中にいる私も変わる必要がある。自分で自分の記憶を変えることは出来ない。この矛盾を解決しようとすると玉突きのように他の矛盾が現れてしまう。」

「じゃあ、あなた以外の全てを変えてしまえば…矛盾は起きない」

「それも出来ない。私と宇宙を隔てる境界は揺れ動いているんだ。私は私であって、君でもあるし、そこのコップの水でもある。互いに干渉しあうからね。時間は過程を引き出すときに使う方便のようなものだよ。つまり時間は主観的なものなんだ」

コップの氷がカラン、と音を立てた。太田はため息をついた。こんなことならあのときに目の前に座るこの男を放っておくべきだった。そうしていたらきっと今頃居酒屋に居たはず。目の前の水もビールだったに違いない。あぁ、これもまた仮定法だーー太田は苦笑いを隠せなかった。