日想20210701

メンタルクリニックの初診予約を取った。メンタルクリニックにお世話になるのは去年の秋以来だ。引っ越したので別の病院で初診になる。去年、私はパニック障害として投薬治療を受けた。薬は効果があり、半年ほどの治療の後に薬を絶っていた。薬を絶ったのは症状が落ち着いたのもあるが、そもそも作用への抵抗があったのが大きい。なぜ投薬が開始される可能性が高い通院をまた再び選んだか、というとそれは簡単で、不安からくる辛さが生活や仕事を圧迫するように再びなりつつあるからだ。私は独りで暮らしており、働けなくなって今住む家を維持できなくなるのは死活問題になる。

ではなぜ投薬、正確に言うとSSRI抗うつ剤に対して拒否感があったのか。これをメモしておきたい。ここでいくら私の主観的な辛さを物語ったところで何の役にも立たないが、私が葛藤するSSRIへの抵抗は他の人にも役立ちそうだからだ。SSRI選択的セロトニン再取り込み阻害薬の略語だ。端的に言えば幸福感を感じる物質セロトニンを脳内に増やしましょう、という薬だ。私が飲んだのはレクサプロという薬で、マイルドな部類に入るらしい。

どうしてこのSSRIに私は抵抗があったのかと考えてみると、副作用のことはまぁあるにしても、根本的には「自分の思考が何かしら外的な要因によって左右されていること」が許せなかったのだと思う。

しかし、改めて考えてみるとこの理由は変だ。外的な要因によって私の思考が左右されることは何の不自然さもなく、日常的な現象なのではないか?私たちの意思は完全に独立した不可侵の存在ではなく、環境との複雑な相互作用の中で弛る存在なのだ。それを今更、セロトニンの多寡で方向付けることにどの程度のインパクトがあるのか?この問題を突き詰めると私の主観的な自由の問題に行き着くわけだ。しかしこのような個人的な自由の問題は結論を出すのが困難などころか、考えることの意味があるかすら怪しい。

結局のところ「不安に左右された意思決定をしたくない」というのが再通院の決め手になった。不安に支配された精神は非生産的かつニッチな状態に逃げようとする。人と交わらず、リスクをとらず、変化のない穏やかな独立したControllableな世界。これはある種の解であるのは認めるが、私の解ではない。

「そこまで考えられるのなら不安に争って行動すべき」ということも思う。だが実際には不安はジワジワと私の生活様式を押し流し、逃げどころのない場所へと連れて行く。いつの間にか、不安を避けたつまらない生き方をして人生の時間を浪費したくない。

私がこのような決定をできたのは、逆説的だが私がある程度に不安に苛まれる前の考え方を保持していたからだ。「私が本当に欲している声」に耳を傾けすぎない理性。この留め金がなかったらきっと私は別の生活を送っていたと思う。