ラズパイオーディオに入門した

いい音で音楽を聴きたい。そう思っていたが金がかかるので先送りにしていた。 ラズパイオーディオとは小型LinuxマシンRaspberry piを使ったオーディオ環境のことを指す。これの利点は量販店で機器を揃えるよりも安く済み、かつカスタマイズ性が高いということだと思う。

私が使っていたのはポータブルスピーカーJBL Xtreme 2。これにPCをBluetooth接続していた。 なんとなく買ったものだけどまぁまぁ満足はしていて、狭いワンルームに住んでいる分には十分だと思う。持ち運びもできるし。 ただ、アウトドアも想定しているからか、パワフルな音でイヤホンで聴く場合と比べると広がりが微妙。 何より最近引っ越して部屋が広くなり増えた部屋にもスピーカー置きたいな、という欲求がでてきた。しかしオーディオを一式を揃えるのはけっこう金がかかる。

私はオーディオ初心者だ。いい音で音楽を聴きたいが、お金はあんまりかけたくない。というわけでラズパイオーディオをやってみることにした。 部屋にRaspberry pi 3 Bが転がっていたのでこれを使うことにした。このラズパイにはデフォルトオーディオ出力が付いているけど性能はいまいち。 これはデジタルで配信する音源(mp4とかストリーミングとか)をアナログの音信号に変換する機構(Digital Analog Converter, DAC)がしょぼいからだ。 なので良い外付けのDACを接続する。とりあえずラズパイに相性が良さそうなIQaudio DAC Proをポチった。3300円。

接続はI2Sでラズパイから生えているピンに刺すだけ。ディストリビューションraspberry pi OS。ドライバのインストールなども不要で、特になんの設定もなくオーディオカードとして認識された。

せっかくなのでスピーカーも新しいものを買うことにした。買ったのはiLoud Micro Monitor。アンプ不要なタイプのモニタースピーカーで音のバランスが良い割に安いらしい。知人が使っていてオススメされたのでこれにした。

音源はRaspotifyを使う。これはラズパイ上でSpotifyのクライアイントとして振る舞うソフトウェアで、実行して同じネットワーク内にいればスマホやPCなどの他のSpotifyクライアントからリモートで操作でき、好きなように音楽が再生できるようになる。Raspberry pi OSでのインストールは

curl -sL https://dtcooper.github.io/raspotify/install.sh | sh

で終わり。このままだと音が出なかったのでサウンドカードの設定を少し書き換えた。

pi@raspberrypi:~ $ cat /usr/lib/systemd/system/raspotify.service
[Unit]
Description=Raspotify
After=network.target

[Service]
User=raspotify
Group=raspotify
Restart=always
RestartSec=10
PermissionsStartOnly=true
ExecStartPre=/bin/mkdir -m 0755 -p /var/cache/raspotify ; /bin/chown raspotify:raspotify /var/cache/raspotify
Environment="DEVICE_NAME=raspotify (%H)"
Environment="BITRATE=160"
Environment="CACHE_ARGS=--disable-audio-cache"
Environment="VOLUME_ARGS=--enable-volume-normalisation --volume-ctrl linear --initial-volume 100"
Environment="BACKEND_ARGS=--backend alsa"
Environment="DEVICE_TYPE=speaker"
EnvironmentFile=-/etc/default/raspotify
ExecStart=/usr/bin/librespot --name ${DEVICE_NAME} --device-type ${DEVICE_TYPE} $BACKEND_ARGS --bitrate ${BITRATE} $CACHE_ARGS $VOLUME_ARGS $OPTIONS --device hw:1,0

[Install]
WantedBy=multi-user.target

raspotifyはsystemctlで管理できるので適宜daemon-reloadやrestartをする。設定の内で重要なのはDACのデバイス番号で、--deviceで指定する名前。/proc/asound/cardsとかを見ればわかると思う。speaker-testコマンドもあるので音信号の流れがどこで途切れているかチェックしながら進めればスムーズ。

今回構築したラズパイオーディオは:raspotify -> raspberry pi 3 B -> DAC(IQaudio DAC Pro) -> スピーカー [iLoud Micro Monitor]。前に比べてシンバルや弦楽器の細かい音がわかるようになった。サンプリングをしている曲を聴いてみたら以前はわからなかったサンプルの途切れ目までわかってしまった。とりあえずは満足している。これで少し様子をみて必要ならパーツを変えていこう。

時間を反芻して生きている

Aが暗い道を一人歩く。最寄駅からアパートまでは20分ほどだ。左右には住宅が連なっている。彼は疲れ切っていた。様々な聞こえるはずのない声や見えるはずもない幻影が想起された。風の音があるはずもない波音に聞こえ、道端のゴミ影がネズミや虫に見えた。Aにはこれらが幻影であることは勿論わかっていた。だが右後ろからブツブツと追いついてくる声。これは果たして幻聴なのだろうか?その声は聴こうとすればするほど饒舌になっていく。

「…わかっただろう?…主観的な時間は必ずしも矢のように一方方向に進むわけではないんだ。」

まだ家までは暫くある。蒸し暑い夏の夜だ。シャツが汗でぴったりと肌に貼りついている。声は無視するべきだ。だが声は蕩蕩と話し続ける。

「君がまさ今ココでする体験は過去の経験を引き摺らざるをえない。目の前にある電柱。君はこの光の集まりを処理している。生きる君は処理を止めることができないんだ…」

帰ったら家族は起きているだろうか。また暗いリビングでビールをすするのだろうかーー

「生きる君は処理を止めることができないんだ。処理を続けることが生きることだと言ってもいいかもしれない。処理とはつまり、この例で言えば光の束の解釈だ。君は光の束を柱だと考えるかもしれないし、単なる色のシミだとみなすかもしれない。だけど、その処理過程には過去の君の知覚経験が否応にも入ってしまう。考えてみたまえ。電柱が存在しない世界で育った人間が電柱をみた体験が自分のそれと同じだろうか?ある意味では私たちは過去の奴隷と言っても良いかもしれないね。」

過去の奴隷。Aが思い出すのは断片的な過去の記憶だった。子供の頃に父に連れられ訪れた太平洋。打ち寄せる波と恐ろしささえ感じるほどに積もった雲。

「必ずしも過去が今を全て決定するわけではない、あくまで傾向があるだけだ。ここで『決定』という言葉を誤解を恐れずに使ったのは、それくらいに君たちが過去に争うことが難しい、ということを伝えたいからだ。では過去が現在の君をどのように揺り動かしているか?まさかランダムな過去が君に囁いているわけではないだろう。もちろん沢山の例外はあるが、近い過去は思い出しやすい。これはひとつのルールと言えるだろう。去年よりも昨日のことのほうが思い出しやすい。」

雲は黒くなり、風が強くなる。聞こえるはずのない潮騒が伝える波はどこか自分の意思と反するように揺れていた。

「つまり君の今、まさに今、自由な君の独立した人格が知覚したと思い込んでいるのは過去の反芻なんだ。君は牛のように経験を処理しているんだ。胃にある過去の記憶が現在の口へと戻され、現在の知覚と共に咀嚼をして『今』を作っている」

だから何だというんだ?私は今、ここに生きているんだ。この蒸し暑い夜を。

「そうだな。つまり暑さに関する君の過去がーー」

道を歩くAを車がすれ違った。強いヘッドライトに眩んだ彼の眼には砂浜や海が歪んで映った。

日想20210702

最近は「反芻する主観的な時間」について考えている。私たちは現実の状態のみならず、多分に過去の経験に影響を受けた振る舞いをする。では過去は現在にどんな形で影響を与えるのか?これが私の気になるところだ。以前に見た景色をふと見た光景から思い出す。過去の経験則から導かれた帰結をもって話す。過去の記憶が再現することを恐れて取る行動。過去は私たちの現在を不連続かつ不意に影響を受けている。

この姿を私はある種の反芻だと考えている。つまり処理しきれなかった過去の記憶がそのまま蓄えられ、何かしらの拍子で想起され現在の私の思考へと影響を与える。牛が行う反芻のように、食べた食物をまた口(=現在)に戻し、合わせて咀嚼し、飲み込む。一方向に進む矢ではなく、行ったり来たりを繰り返す、ぬったりとした進捗。これが私の時間観だ。

これをどうにかして寓話的に表現したいと思っていて、いろいろ考えたりメモを書いたりしている。まぁそのうち書けるでしょう

日想20210701

メンタルクリニックの初診予約を取った。メンタルクリニックにお世話になるのは去年の秋以来だ。引っ越したので別の病院で初診になる。去年、私はパニック障害として投薬治療を受けた。薬は効果があり、半年ほどの治療の後に薬を絶っていた。薬を絶ったのは症状が落ち着いたのもあるが、そもそも作用への抵抗があったのが大きい。なぜ投薬が開始される可能性が高い通院をまた再び選んだか、というとそれは簡単で、不安からくる辛さが生活や仕事を圧迫するように再びなりつつあるからだ。私は独りで暮らしており、働けなくなって今住む家を維持できなくなるのは死活問題になる。

ではなぜ投薬、正確に言うとSSRI抗うつ剤に対して拒否感があったのか。これをメモしておきたい。ここでいくら私の主観的な辛さを物語ったところで何の役にも立たないが、私が葛藤するSSRIへの抵抗は他の人にも役立ちそうだからだ。SSRI選択的セロトニン再取り込み阻害薬の略語だ。端的に言えば幸福感を感じる物質セロトニンを脳内に増やしましょう、という薬だ。私が飲んだのはレクサプロという薬で、マイルドな部類に入るらしい。

どうしてこのSSRIに私は抵抗があったのかと考えてみると、副作用のことはまぁあるにしても、根本的には「自分の思考が何かしら外的な要因によって左右されていること」が許せなかったのだと思う。

しかし、改めて考えてみるとこの理由は変だ。外的な要因によって私の思考が左右されることは何の不自然さもなく、日常的な現象なのではないか?私たちの意思は完全に独立した不可侵の存在ではなく、環境との複雑な相互作用の中で弛る存在なのだ。それを今更、セロトニンの多寡で方向付けることにどの程度のインパクトがあるのか?この問題を突き詰めると私の主観的な自由の問題に行き着くわけだ。しかしこのような個人的な自由の問題は結論を出すのが困難などころか、考えることの意味があるかすら怪しい。

結局のところ「不安に左右された意思決定をしたくない」というのが再通院の決め手になった。不安に支配された精神は非生産的かつニッチな状態に逃げようとする。人と交わらず、リスクをとらず、変化のない穏やかな独立したControllableな世界。これはある種の解であるのは認めるが、私の解ではない。

「そこまで考えられるのなら不安に争って行動すべき」ということも思う。だが実際には不安はジワジワと私の生活様式を押し流し、逃げどころのない場所へと連れて行く。いつの間にか、不安を避けたつまらない生き方をして人生の時間を浪費したくない。

私がこのような決定をできたのは、逆説的だが私がある程度に不安に苛まれる前の考え方を保持していたからだ。「私が本当に欲している声」に耳を傾けすぎない理性。この留め金がなかったらきっと私は別の生活を送っていたと思う。

"Why AI Is Harder Than We Think"を読んだ

論文の要約です。昨今はAIの研究が盛んに行われていますが、実は過去にもAIブームは起きていました。そして今回も過去と同様に期待が過度であったが故の失望期を迎えるのではないか、という見方があります。この論文はこうしたAIの春(期待期)と冬(失望期)のサイクルがなぜ起きるのか?について考察したものです。論文の体裁を取っていますが、ブログ的な文章でAIの専門家でなくとも読める内容です。

書誌情報

Mitchell, Melanie. 2021. “Why AI Is Harder Than We Think.” arXiv. http://arxiv.org/abs/2104.12871.

著者であるMichell先生はPortland State Universityの教授です。

AI春と冬のサイクル

人工知能(Artificial Intelligence)は1960年前後から様々なブレイクスルーをきっかけとした研究が活発に進む「春」の時代と、期待された性能を出せないが故の失望の「冬」の時代を繰り返している。

第1期: 1960~1970年代

脳の神経細胞をモデル化した計算モデル、パーセプトロンの発明により人間の知能をコンピュータで再現する人工知能への期待が高まる。しかし1969年にパーセプトロンが線形分離の問題を解けないことがわかり、ブームは去った。

第2期:1980年代初頭

人間の専門家が記述したルールに基づいて医療診断などを自動で行うエキスパートシステムが注目される。日本では第五世代コンピュータプロジェクト、アメリカではStrategic Computing Initiativeなど巨大な資金が政府主導で投入された。しかし未知のケースに対応できる汎用的なルール記述の難しさから冷遇の時代へ。冬の時代である1990年に著者が博士号を取ったときは「履歴書にAritificial Intelligenceの文字を入れない方がよい」とアドバイスされたことさえあった。

第3期:現在1990, 2000年代〜

知能をルールで記述することで作るのではなく、実際のデータから推論モデルを統計的な手法で学習させる機械学習(Machine Learning)が1990年〜2000年に研究される。この手法は第1期のパーセプトロンのように神経科学ではなく、ベイズなどの統計に基づいた手法。人間に取って代わりうる汎用的な知能よりも、画像認識など個別なタスクを解くことに注力した。そして脳の構造にヒントを得た大規模ニューラルネットワークを使った深層学習(Deep Learning)が画像認識などのベンチマークで統計モデルを大きく上回る性能を出す。深層学習は音声認識、言語翻訳、対話ボット、画像認識、ビデオゲームプレイ、タンパク質フォールディングなどで高い性能を示しており、多くの資金が投入され盛んな研究が続いている。

しかし深層学習にも深刻な性能の限界があることがあることがわかってきている。ニューラルネットワークは与えられた入力と望ましい出力のペアデータを集めたデータセットを使って学習されるが、人間が期待しないようなデータの統計的な特徴を使って推論してしまう(Shortcut learning)。そのために間違った推論結果をうむ不自然なデータ(Adversarial perturbations)を作ることができてしまう。

AIへの過度な期待はなぜ起こるのか

どの時期においても、人々は春の時代にAIへの過度な期待をしてきた。「専門家の仕事を代わりにやってくれる」「人間の代わりに家事をしてくれるロボットが作れる」「完全自動運転が実現し道中を走るようになる」「人間の知能を遥かに超えたSuper Intelligenceが生まれる」「シンギュラリティがくる」など。しかしこれらの期待は結局実現していない。最近はTransformer、自己教師あり学習、深層強化学習など、従来よりも人間らしく推論するAIの研究が進んでいるが、まだ人間レベルに到達する道は不透明なままである。

ではなぜ、人々はAIに過度な期待をしてしまうのだろうか。この理由は我々(人間)が知能について考えるときのバイアス、知能そのものの理解の欠如にあるのではないか。このことを4つの誤信(Fallacy)として説明する。

誤信1:限定的な知能は汎用的な知能と地続きである

現在のAIはチェスや囲碁自然言語のQ&Aなどの限られたタスクを解く限定的な知能だが、この研究は人間のような汎用的知能を作る上での一歩であると考えられている。しかし、最初の一歩を踏み出したからといってそれが必ずしも目指すものに到達するかどうかは分からない。

誤信2:簡単なものは簡単で、難しいものは難しい

人間にとって簡単なタスクはAIにとって簡単な訳ではない。例えば、AIはチェスのような高度な知能テストで高いパフォーマンスを出せるが、人間の1歳児が行う認知や移動の機能のスキルは実現できない。汎用的なAIを作るのが難しいのは、目標とする私たちの思考の大部分は無意識かつ複雑だからだ。

誤信3:希望的な記憶術のルアー(The lure of wishful mnemonics)

希望的な記憶術(Wishful mnemonics)はDrew McDermottによる言葉。私たちはプログラムが何かしらの知的に見える処理を行う際、プログラムがデータを「理解」をしていると説明してしまうが、実際にはプログラムは本質的に「理解」をしているわけではない。このように私たちは「ゴール」や「理解」など、人間の知的能力とのアナロジーで説明しがちである。しかし実際にはAIのプログラムはデータを”理解”しているわけではないし、"ゴール"を与えられているわけではない。たとえば、"Question Answering Dataset"などの名前がついたベンチマークで人間以上のスコアを出すと人々は「システムは質問応答で人間以上になったのだ」と誤解してしまう。だが実際はそんなことはない。実際、深層学習によるベンチマーク結果はShortcut learningになっている可能性がある。

誤信4:知能は全て脳にある

20世紀中頃に現れた「脳の情報処理」では認知能力を脳の情報処理として捉え、この過程を再現することができれば人間レベルのAIを作ることができると考えられていた。そのため身体はセンサ入力、運動出力を除いて知能に大きな役割を果たすとは考えられていなかった。これは過去のシンボリックAI研究でも通じてみられる考え方で、「将来、計算リソースが十分に増えれば人間レベルに到達するだろう」という現在の言説にもみられる。

しかし認知科学発達心理学において身体は認知機能に重要な役割を果たすことが指摘されてきた。我々の脳にある知的な表現は身体に依存しており、思考は感情などの「非合理な」バイアスなしには成り立たない。AIに関する言説の多くはこの指摘を無視しており、バイアスなしの「純粋な知能」を前提にしがちだ。たとえば、「人間を超えるAIが将来作られ、地球環境を守るために人間を殺すのではないか」という思考実験。ここでは将来人間を脅かす超AIが感情などを持たない非人間的なものである、と暗に仮定している。

結論

4つの誤信を通して現在のAIの見方に関する問題点と私たちの知能に関する直感が限られていることを示した。

最近では人間が共通して持つ知的能力"Common sense"がAI研究者と認知科学者たち共通の概念として議論されている。機械に人間の幼児のように空間、時間、因果律、無生物/生物の概念を与え、具体的な例から一般的なコンセプトへの抽象化、過去の経験からのアナロジーなどを実現するにはどうすればよいのか。まだまだ未解決の問題だ。現在のAIは知能そのものの理論が乏しく、科学というよりも、具体的な試行錯誤を通じて理論を探る錬金術に近い。知能理解の科学をやっていきましょう。

感想

日本でも数年前からシンギュラリティが大真面目に議論されたり、AIは人間の職を奪ってしまうのではないか、といった話が実しやかに囁かれています。こうした過激な説は産業応用が盛んなAIならではの現象かもしれませんね。実際にAIと名を付ければ物が売れたり、お金が集まったりする訳です。しかし、こうした現実に見合わない「飛ばし」のツケは将来の技術者/研究者が支払う訳です。未来の希望があることはもちろん重要ですが、具体的な技術を超えたメタな議論においても科学的な眼差しは忘れたくないものですね。

料理したもの10

来月の引越しに伴い、コンロの数が3倍になる予定です。

牛肉とゴボウの味噌炒め

大好きな料理です。母が教えてくれました。母は祖母から教わっています。

牛肉とささがきゴボウを酒、味噌、コショウで炒めたものです。酒にも飯にも強烈に合います。祖母は馬肉で作っていました。馬肉は簡単に手に入らないので牛肉で代用です。

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しょっぱうまい

きんぴらゴボウ

タイトルの通りです。私は過度に甘いキンピラを好みません。醤油、みりんのみで味付け。唐辛子の輪切りも忘れずに。ゴボウの臭みを良い感じに転化できればさらにレベルアップしそう。ちなみに唐辛子がなくてカイエンペッパーで代用したこともありますが、まぁいけました。中身一緒だしね。ただ唐辛子のほうが辛さの偏りがあって好きです。

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きんぴら

てんぷら祭り

当時は1月中旬ですが、はやくもタラの芽が出回り始めました。タラの芽大好き人間な私は思わずテンションが上がってしまい、小躍りで手にとり会計をして、その足で酒屋で日本酒を買いました。天ぷら祭りの開催です。

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材料たち

揚げた後の写真が残っていません。楽しんでいた証拠だと思います。揚げたのはタラの芽、舞茸、シシトウ、ちくわ、と豚肉。豚肉は確かチーズと大葉を巻きました。

明太子パスタ

パスタはレンジで茹でています。茹でいている間に明太子の皮をとり、オリーブオイル、バターと混ぜておく。パスタが茹で上がったら茹で汁を追加しソースをつくる。湯切りしたパスタをあえて、少量の醤油で塩気を整える。大葉をのせて完成です。

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めんたいこぱすた

いろいろ

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いろいろ

いろいろ作りました。一部は常備菜の類ですね。きんぴらごぼう、シシトウの焼き浸し。あとは白髪葱と竹輪のピリ辛和え物、ピーマンと舞茸の炒め物です。ヘルシーですね。

からあげ

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karaage

からあげです。私は醤油、酒、ニンニク、生姜に鶏モモを漬け込んで、片栗粉で揚げます。

タンドリーチキン

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なんちゃってタンドリーチキン

鶏肉は安い。鶏モモ肉をヨーグルト、カレー粉、ガラムマサラ、おろしニンニク/生姜に漬け込んでフライパンで焼きました。油が落ちにくいですが、うまい。

ラグーソース

挽肉を使ったラグーソースのパスタです。ミートソース缶を買えば良いのですが、このときはトマトとタマネギが余っていたため、挽肉と共にソースにしました。

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ソースの過程

ニンニクと玉ねぎのみじん切りを炒めて、挽肉→トマトとローリエを追加。煮詰めてソースにします。トマトはミニトマトをみじん切りしたものを使いました。トマトソースはトマトから出る水分をしっかり飛ばす必要があるらしいのですが、これはイマイチ足りませんでしたね。うまかったですが。

間奏

カオマンガイ穴子を食べるなどしました。穴子は蒲焼を買ってきたものです。スープはカオマンガイの際に鶏肉を煮たスープに塩をして整えたものです。

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カオマンガイ穴子など

カシミールカレー

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カルディにカシミールカレーが売っていました。これはレトルトですが具が一切ありません。自分で追加するスタイルです。 辛さはStrong hotとあり、結構きつめの辛さです。スパイスの香りが立っており、イケます。このときはカオマンガイを作った時に余った茹で鶏モモ肉を追加しました。うまい。

静かに呟く

山崎は40数年の人生を悔いがないと表明する。大学を出たのちに運良く博物館の職を得た。大学から続けた調査が評価され、今では小さな民芸資料館を任されるに至る。もちろん、この人生に後悔はある。だが過去の経験は織り合わさっていつの間にか人生の糧となっていた。そのため失敗として取り出すにはいままでの価値観を大きく変える必要がある。しかしそれはしないほうが確実だ……。この繰り返しによって山崎が発する人物としての重みは積み重ねられ、熟成されつつあった。

この民芸資料館に起きた奇妙なつい先日の出来事も山崎の「波乱万丈」な人生のヒダへと埋もれるはずだ。彼はそう思っている。いや、そうでなければおかしい。

「この屏風の中の、この絵です。これが増えているんですよ」

最初に見つけたのは資料館に臨時で勤めている学芸員だった。江戸時代後期に描かれた屏風。民話の一場面を描いたものだ。妖怪とそれを取り巻く人々ーー驚き慄いている、あるいは気づいていないーーが描かれている。その描かれた人々の姿の見事さ、描かれた状況の歴史的価値。共にこの資料館の主力を担うものだ。学芸員が指した先の妖怪は確かに2つに増えていた。絵のバランスもおかしい。この絵は病害をもたらす妖怪との邂逅を描いたもので、妖怪が2匹では締まりがない。そもそも図録にあるようにオリジナルは1匹のはずだ。

学芸員の声はよく屋内に響いた。外を取り巻く真夏の熱気は資料館とは関係がなかった。外界とは隔絶された涼しさ。窓の奥でセミの声がくぐもって響いている。客もまばらだ。資料保存に配慮した照明とあいまってこの資料館はどこか別の世界として機能している。

「見間違いというわけでもないようだね、たしかに図録にもあるし」

山崎は自分が置かれた状況にどこか馴染めない。どうしたらよいのか、わからない。ずっと変わるはずがないものが突然、なんの前触れも無く変わるーーそういった変化に山崎は不安を感じられずにはいられなかった。不安は不快として行動に出ようとしたが、山崎はこれを抑えて普段通りにふるまった。

「確かにそのようですね…。でも、どこにどう相談したものか…」

誰にもわかるはずがなかった。しばらくの議論の後、ひとまずは警備を強化した上で数日様子をみる、という結論に至った。もちろん誰かが侵入した可能性がないわけではなかったが、痕跡らしきものさえ見つからなかっのだ。

お昼の13時。山崎は件の絵に一番近い鉄パイプ椅子に腰掛けていた。相変わらず入館者はまばらで、エアコンの音だけが室内に響いていた。館長である山崎がこうして展示室に座るのは珍しいことではない。こうして来館者の姿を見るのも、ある種の勉強ですよ、そう彼は半ば自嘲自重気味にスタッフに話していた。

件の絵の前には1人の女が佇んでいる。頭が短いが顔は山崎が座っている角度からは見えない。口元だけが見える。かぶっているパーカーのせいだ。夏場にパーカーなどおかしい。当初そう思った山崎だったが、彼は女性は日焼け防止のために夏でもパーカーを着ることがあると知っていたのだ。彼女は静かに呟く、呟く。口をパク、パク、と動かしている。読唇術の心得は山崎にはない。口をパク、パクと繰り返し動かしている。「はいはい」なのか、あるいは「まいまい」なのか。とにかくその絵とは全く関係なさそうな言葉ばかりが思い浮かぶ。

こういったときに浮かぶ一般的な印象は「変な、不気味な人だ」なのだろう。だが山崎は不思議と何も感じなかった。外で鳴くセミたちの合唱を背に呟くその姿があまりにも自然過ぎたのだ。彼はただ、見ていることに終始していた。監視員としての役割に自ら縛り付けられるように。

山崎はその日の終わりに行われるスタッフミーティングで、当然のように「何も変わったことはなかった」と報告した。複雑に絡み合った状況での決定は、確固たる決断の結果へと書き換えられていく。

だが、山崎の仕事はその日から一変するのだった。件の絵の妖怪が4匹に増えていた。彼はこのことを知ったとき、女の口の動きが「倍々、倍々」だったことに気づいていなかった。